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アクセンチュアでどのようにして代表取締役になれたのか?

著者:海野恵一

出版社: スウィングバイ株式会社

目次

第一章はアクセンチュアでの仕事のやり方について述べている。最近、過労死とかブラック企業が話題になっているが、その原因である、仕事に対しての過負荷とか超残業時間とかに関してはアクセンチュアが世界一だろう。どんなに仕事を効率よくやっても終わらないような負荷がかかってくる。そうした負荷をこなせない人は残れない。仕事が飯より好きだったから平気だった。そうでなければ命が持たない会社だ。


第二章はコンサルティングもしていたが、多くの仕事はそうではない。お客様の仕事の仕方を根本的に変えるのが仕事の中心だった。この企業はそのためのノウハウを持っている。しかも、大規模の改革を行う。だから、戦争に近い。敵はその改革に抵抗する社員だ。そうした社員が数千人になる場合もある。そうなるとまさしく、戦争をするのと一緒で、アクセンチュアの社員が何人も倒れるのだ。大将は絶対に倒れることは出来ない。


第三章は仕事で失敗した話だ。システムはうまくいかない時もある。その時には色々なパターンがあって、どう修復したのかを書いている。最終的には失敗は許されないので、どんなことをしても成功させなければならない。そうしたいくつかの事例を述べている。こうしたビジネスには特殊な能力を持った天才もいる。また、どんなアドバイスをしたのかも書いている。お客様の長年のビジネス慣行を覆した話もここに書いてある。


第四章は30代で経営者に成るのだが、その心構えを書いている。家庭を大事にしなかったことの反省とか、優秀なアメリカ人の協力を得なかったこととか、提案の仕方が全くわかっていなかったこととか、考えの発想が戦術的で、戦略的でなかったというようなことを書いている。

例えば、システムコンサルタントの料金は単価ではない。日本人はTQC的な考えで、なんでも積み上げて考えるが、そうではない。戦略的のものを考えなければならない。そうした考え方が出来るようになるまで、20年以上かかった。費用対効果の考えがわからなかった。効果が出れば費用はいくらでもいいのだ。


第五章はアクセンチュアの前身であるアーサーアンダーセンに入るまでと入社してからの最初のキャリアであるプログラマーとしての仕事をどう極めたかの話である。プログラミングではその技術を極めたことだ。トップレベルの技術など持っていなかったが、ハードディスクの技術マニュアルを完璧に理解して、コーディングでは無敵になった。IOを制覇したプログラマーは絶対に負けなかった。

第六章はヤマハ発動機での生産管理の仕事で何をしたのかを書いている。当時としては世界最先端のMRP (Material Requirement Plannig)のシステムを導入した。いわゆるトヨタのカンバン・システムを世界で初めてコンピューター化したのである。画期的であった。この時は何百人という部隊を率いて、システム導入に抵抗する数多くの現場の社員と戦った。

物事を極めようとしたら、徹底して辛抱強く、極めるまで行うという経験をした。どんな障害にも諦めてはいけないことも学んだ。コンサルタントとして一社だけにフルタイムで、8年もコンサルティングすることは長すぎるが、そんなことは決してなかった。


第七章はそうした大規模なシステム導入を経験し、エンジニアからお客様に営業できる経営者になるまでの道のりを書いている。浜松、名古屋、大阪、東京と拠点を移しながら、お客様の経営者に仕事の提案ができるようになって行った経緯を書いている。

その中でも画期的であったのはソニーのメールシステムだった。世界最初のインターネットの前身を作ったことだ。世界最先端を行くことはリスクもでかかったが、チャレンジした。折角作ったこうした先端技術を世界に展開する器量がなかったのは残念だった。


第八章は素材産業のビジネスを開拓し、その責任者になって、最終的に代表取締役になる時までの話を書いている。素材産業は全くの新規の市場だったので、苦労した話を書いている。この頃になると唯我独尊だったそれまでの考え方を改めて、アメリカのノウハウを活用する方法を身につけることができた。こうして新しい業界にチャレンジし、化学業界と石油業界、素材業界のトップの信頼を得ることができた。その道のプロから彼らの業務を謙虚に学ぶ習慣ができた。


第九章はパートナーの待遇について書いてある。30代で企業の経営者としての扱いを受け、飛行機はファーストクラスで、毎年あるパートナー会議がどういうものかを書いている。パートナー会議は「君はすごいんだ」といったような自信を与えてくれるイベントだった。


第十章は52歳で糖尿病が原因で倒れてしまった。その時に虎ノ門病院に入院したが、それを契機に、インラインスケートを始めた。それ以来、十数年、スケートをしている。その間に、色々なことがあったが、そうした事件とか行動を書いている。また、スキー競技とかバイクレースもしていたので、仕事が厳しいとは言っても結構、余裕はあった。


第十一章は33歳から8年間、青年会議所での活動を書いている。当時の白鳥社長から毎月50万円の経費をもらって、浜松青年会議所に入会し、最後は国際青年会議所の副会頭、財政顧問にまでなり、その世界会議で、数十カ国の代表を前に議長の経験をした。青年の船も企画し、六百人を船に乗せて、台湾、香港まで行った。リーダーシップスキルの習得とか人格形成には大いに役に立ったが、サラリーマンが参加できる組織ではなかったが、最後までやり通してしまった。


第十二章はこうした仕事をしながら、3回も離婚した経験を書いている。なぜ離婚したのか。楽しかった時もたくさんあったが、どういった苦労があったのか。そうした七転八倒の日々を書いている。私の女性関係はちょっと特殊だったが、女性に対しては、誠意の気持ちを持ち、全て自分が悪いという考えを持って生きて来た。

一貫して、自分を守ってはこなかった。相互の誤解は数多くあったが、相手を思いやる気持ちを持って生きて来たつもりだ。人が絡むと誰かが犠牲になる。特に、男はお金に汚くなってはいけない。女性がお金を欲しければ全部あげればいいという考えで生きて来た。


第十三章はアクセンチュアを退職してから、何をしてきたかを書いている。アウトソーシングのビジネスを8年間経験して、失敗した。コア業務のアウトソーシングビジネスをしようとしたのだが、お顧客様は誰もが人事とか総務の雑務を担当する人たちで、ミスマッチだった。もう一つやりたかったことがあった。それは日本にはグローバルリーダーがいないと考えていたことだ。そうした人材に自分もなりたかった。そうし人材になるための研修を実行して来た。そして最初は大連研修を行った。現在は英語で毎週二時間、世界の事象を教えている。

感想

アクセンチュア社長の社畜論w
いや、違うな。
ワタシも結婚するまで、海野さんと同じだった。三度の飯より仕事が好きで、約2年間は、布団で寝たことがなかった。というか、家に帰ったことはなかった。

 

けど、ワタシは、結婚して変わったのよね。そこが海野さんと違った。

 

東大卒。新卒で会計事務所に。その後、アクセンチュアの前身であるアンダーセンの日本支社に入社。でも、得意なのは会計ではなく、コーディング。

 

そして、その後、コンサルに。コンサルから、マネージャー、そして、パートナーに。

 

コンサルとは傭兵であり、兵隊だ。システム導入や、業務改革というのは、戦争だ。思いっきり賛成しますな。そういう世界に生きているけれど、そういう世界が好きだけれど、辛くなってきているのは、そのとおりだ。

しかし、海野さんと違うのは、コッチは超少数。海野さんは大規模部隊を率いているということだ。

 

で、そんな本書で心に刺さったのが

第三番目に世界のビジネスの仕方を勉強しなければならない。身近なものとしては孫氏の兵法がある。これを勉強すればビジネスの相手から貶められたりされないスキルを身につけることができる。また、自らそうした戦術を駆使することができるようになる。今の日本人は真面目、正直、勤勉、嘘つかない。それだけでは世界の人達から信用されない。騙されやすいからだ。

孫氏の兵法と戦争論が、好きな私の心にものすごく、ささりましたな。

 

ちなみに、一番目はリベラルアーツ、二番目歴史について学ぶことね。

 

あと、心に刺さったのが

 

昔の人は修身斉家治国平天下と言ったが、その斉家を知らなかった。妻を大事にすることだった。

 

ワタシ、海野さんより圧倒的に仕事はできないけど、海野さんより奥さんと家族を大事にしている。
あとはどれだけ仕事のスキルを海野さんに、ちかづけるだな

 

 

アクセンチュアでどのようにして代表取締役になれたのか?

アクセンチュアでどのようにして代表取締役になれたのか?

 

タイトル:アクセンチュアでどのようにして代表取締役になれたのか?
著者:海野恵一
出版社: スウィングバイ株式会社
おすすめ度:☆☆☆☆☆(名著だな)