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哀しすぎるぞロッパ 古川緑波日記と消えた昭和

著者:山本一生
発行元:講談社

 

目次

序章
第一章 華麗なる一族の喜劇役者
第二章 東宝古川緑波一座
第三章 戦時下の名作、名舞台
第四章 変わる時代、変わらぬロッパ
第五章 悲しき晩年、そして日記
終章 日記は俺の情熱、いのち

 

感想

古川ロッパという名前は、昭和の、それも戦前戦中の芸能に詳しい人なら、誰もが知っている名前でしょう。多分ですが。なぜ、そこに「たぶん」という但書がつくのかといえば、昭和の喜劇王エノケンこと榎本健一や、徳川夢声噺家としても有名な柳家金語楼や、古今亭志ん生、漫才師の花菱アチャコや、横山エンタツとは違う。なんだろう?そこまでメジャーじゃない感じ。ドラマに登場することもそんなになければ、憧れの芸人として名が上がることの少ない喜劇芸人

 

そんな古川緑波の人生を古川緑波の」日記を元に解き明かす1冊。昭和モダンのど真ん中にいた喜劇人の私生活と、芸能活動を知ることができる貴重な1冊なのです。

 

ロッパ、ずっと喜劇役者かと思いきや、最初は映画評論の人だったのね。知らんかった。お金持ちの小友ということは知っていたけれど、生家は医者で、養家先が軍人一家で、金に困ることはなく、お小遣いもらい、学費をもらい、映画(当時は活動写真)三昧だったとは。

 

キネマ旬報」に記事を書き、自身で「映画時代」の編集も請け負う。ロッパ、コメディアンというよりも、喜劇役者というよりも、評論家で、編集者という側面もあったのな。ちばみに、小森のおばちゃま、こと小森和子もロッパの仲間だったと。

 

知らなかった。

 

そんな古川緑波を支えていたのが阪急の小林一三と、文藝春秋菊池寛であった。「映画時代」がコケて、すっからかんになったロッパは、最初、小説家を目指したんだとな。ちなみに、古川緑波の緑波とは、ペンネーム。本名は古川郁郎。尋常小学校時代に自ら付けたペンネームが緑波っだったのだ。最初の頃、読み方は「りょくは」だったのだと。

 

日記魔だった古川緑波の日記をベースに書かれている本書。すべからくなかったコトにされている「戦前の日常」が、緑波目線で語られているのが、本書の売り。戦況により、芸能活動がどのように悪化し、庶民は抑圧される戦時下にあって、どのような日常生活を送っていたのか?というのがよくわかる。

 

知ってました?1945年8月15日、日本人にも、日常があったということを。その日、エノケン黒澤明監督の「虎の尾を踏む男達」を撮影中であったんだよ。古川ロッパが立つはずの劇場は空襲で焼かれてしまったけれどね。

 

お金持ちで、プライドが高くて、人気も集めていた緑波。戦後、紅白歌合戦の前身となる紅白音楽試合の司会も務めていた緑波ですが、徐々に病魔にその身体と人気が蝕まれていく。人気はなくなり収入は減り続けているのにもかかわらず、生活を維持しようと借金を重ねていた緑波。その借金返すための仕事も徐々になくなりつづける。

 

そして1960年11月16日、古川ロッパは57歳の人生ん幕を閉じたのである。

 

哀しすぎるぞ、ロッパ 古川緑波日記と消えた昭和

哀しすぎるぞ、ロッパ 古川緑波日記と消えた昭和