著者:辻田真佐憲
発行元:イースト・プレス
目次
第一章 大日本帝国の「思想戦」
第二章 欧米のプロパガンダ百年戦争
第三章 戦場化する東アジア
第四章 宗教組織のハイテク・プロパガンダ
第五章 日本国の「政策芸術」
感想
久々に宣伝、プロモーションのお仕事をすることになったので、その原点とも言えるプロパガンダについて調べてみようと思ったら、この本に出会いましたな。
で、本書のはじめにでは、ワタシの考えを後押ししてくれるような記述があって、とりまず、一安心。
プロパガンダという言葉自体は、本来「宣伝」といえ意味を持つにすぎない。そもそも「宣伝」という言葉自体がpropagandaの訳語なのである。その意味では、テレビやインターネットでよく目にする商品のコマーシャルなども、プロパガンダの一種と呼べるかもしれない。
この説明を目にして、みみにして、嫌な表情を浮かべる人も多いのだろうな。でもさ、マーケティングだって、その由来を探せば、戦争にまで話は遡るのだから、無菌室でべき論を語るような議論は辞めようよ、と。
で、プロパガンダ。すぐに思い浮かぶのは、北の将軍様の国。北の将軍様の国を思い浮かべて「たのしい」はねーだろう?とおもうのですが、それは見ている私たちと、将軍様の形だけ真似した刈り上げ君の不幸な現実に過ぎないのですよね、と。
北の将軍様のは宣伝、つまりプロパガンダの専門化で、アメリカと戦いつつ、国内をまとめるために、様々な施策をおこなったのですよ。それは映画製作であり、マスゲームであり、いつも怒っているようにニュースを読み上げるアナウンサーであり。
いまはその見た目だけを受け継いでいるがために「なんだかなぁ」というプロパガンダになっているけど、昔はそんなプロパガンダに騙されて「地上の楽園だ」と紹介していた日本の新聞社もあったのよね。
で、プロパガンダ。
それは楽しくなくてはならないということが、これまた本書のはじめに記されている。
ところが、プロパガンダの多くは「楽しさ」をめざして作られてきた。これは少し考えればすぐにわかることだ。銃で脅しながら宣伝しても、民衆を心の底から服従させることなどはできない。
そして、その流れを受けた第一章では、このようなフレーズが紹介されている。
これを端的に証明するような出来事が1938年2月にあった。陸軍省新聞班の清水盛明中佐は、内閣情報部が主催した思想戦講習会で約百名の文武官を前に次のように語った。「由来宣伝は強制的ではいけないものでありまして、楽しみながら不知不認の裡に自然に感興に中に浸って啓発教化されていくといふことにならなければいけないのであります」(「戦争と宣伝」)。
吉本興業の創業当時をモチーフにした「わろてんか」の中でも、ありましたよね。芸人が軍を慰問しに行くという話が。わらわし隊は、リアルに行われたたのしいプロパガンダなのですよ。
吉本興業の芸人以外にも、古川ロッパや、エノケン、宝塚歌劇団までも、たのしいプロパガンダに動員されていた、とな。
どーしても軍主導、政府主導のイメージがある大日本帝国のプロパガンダだけれど、軍や政府が主役を演じて、大ヒットした施策はほとんどないのだとな。「月月火水木金金」くらいなんだとな。
そんなたのしいプロパガンダの最高到達点がナチス・ドイツであり、ゲッベルスであったのだと。ただ、そんなナチス・ドイツが参考にしたのは「戦艦ポチョムキン」であり、ロトチェンコのポスターなんですとな。
「戦艦ポチョムキン」の根底に流れる共産主義への期待的なもの以外は、絶讃に値するということだったのでしょうな。
プロパガンダというと古臭く説教臭くなるけれど、宣伝といえば面白くて、新しいものとなる。その中身は同じでもね。
さすがに北の将軍様のプロパガンダに騙されて、北朝鮮に亡命する人はいなくても、ISISの宣伝に踊らされて、テロリストになる人は少なくはない。
日本のリベラルな方々が、読売新聞や、産経新聞を「安倍政権のプロパガンダ」と糾弾する一方で、自分たちのサウンドデモには「楽しいから参加しようよ!」と呼びかける。
この本を読んで再確認できたのは「ドッチもだめじゃん」という現実。
プロパガンダをプロパガンダと感じさせている時点でアウトだし、つまらない時点で存在価値ゼロなわけだよ。
あ、だから、最近は恐怖にうったえているのか。
で、結論。
宣伝にしろプロパガンダにしろ、面白くて、カッコよくなければ、ひとの心に響かないってことだな。